呼び出し

結局一年かかっても本は出来上がらなかった。

わたしは編集者Sさんに呼び出されて、
大型書店に向かった。

Sさんは旅行に出かける前だと言い、
ギンガムチェックのシャツに濃い色のデニムという
格好にはあまり似合わない、80年代風のつるつる
と光沢のある黒いビニール製の
大きなショルダーバッグをもって、
待ち合わせの場所にやって来た。
バッグの大きさの割には中の荷物が少ないので、
しぼんだ黒ゴミ袋に死んだ猫でも入れて
肩から下げているみたいな按配だ。
書店の棚をぬって闊歩するSさんは編集者と言うより、
気合いの入った万引き常習犯がこれから盗もうとするものを、
堂々と物色しているみたいな貫禄がある。

Sさんが急に立ち止まるので、あやうくぶつかりそうになった。
「本が出たらここらへんに並びますから」と手のひらで棚を指した。
そして自分の本がここに並んでいるところを
はっきりと頭の中でビジュアライズできるまで、
この場所を去ってはいけないと言うので、
馬鹿げているとは思ったけれど、
平積みされた本を眼の前に、
自分の本が並ぶ様子を想像しようと努力してみた。
一行も書いてないのに、
芥川賞の知らせを小料理屋で待つくらい
致命的な無意味さだ。

川島の落語が思い浮かんできた。
あれを思い出すたびに
「本気で生きているだろうか?」
と自問自答する。

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by NPHK | 2011-08-20 22:04